坐骨神経痛 治療フェスタ開催

B・Gが「デモの神様」で夜更けのアン・アーバーの町には、遊びに行く場所がほとんどない。 学園都市はどこも同じで、せいぜい映画館、ピザ屋、バーくらいしか開いていない。
しかも、どこも学生と近隣の住民でいっぱいだ。 学生と住民の比率は、ミシガン大学からの距離に比例して変化する。
消毒したてのホリデイ・インの雰囲気にうんざりしたGは、会社の人間と連れだって、何か変わったものはないかとレンタカーで街の中心部をめざした。 B・Gは助手席に座り、開いた窓からセッターのように鼻から夜の空気を吸い込んだ。

33歳の億万長者、深夜の俳個である。 ワードのデモは終わったが、少し酔ったGには明らかにまだ証明し残したことがあった。
「ここだ、ここで止めてくれ!」と命じたGは、縁石のかたわらに車が止まると、足をもつれさせながら外に飛び出した。 そばで若い黒人のグループがたむろしている。
あることを、改めて証明したようなものである。 「やあ、元気かい」鉛筆のように首の細い億万長者は、そこにいた連中に向かって陽気に声をかけた。
だが、眼鏡をかけ、格子縞のポリエステル・シャシとプルオーバーのセーターを着て、ベタベタしたブロンドの髪とソーセージのような肌をしたこの白人がどこの何者なのか、彼らのほうはまったくわかっていない。 「B、どこかよそへ行こう」運転席に座ったGのお供が、声をかけた。
「そうしな、B。 どこかへ消えちまいな」と、若い黒人も言った。
「いいや、話がしたいんだ。 ぼくはこの連中と話せるんだ、見てるよ!」「ぼくは○○ができるんだ、見てるよ」というのはパーソナルコンピュータ革命の関の声であり、MSの成功と60億ドルというGの資産を生み出した基本的理念でもある。
この男は、世間に対して何かを証明しなくてはならないと考えている。 巨億の富を得ても、彼を崇拝する従業員が一万人いても、まだ充分ではない。
B・Gやパーソナルコンピュータ業界にいる彼のような人間にとっては、何を証明しても充分ということはない。 決して、かつて運動場で彼らを追いかけ回した、身体が大きくて腕力のある低能な連中からの安全を保証することにはならないのである。

「ぼくは○○ができるんだ、見てるよ」とは青年期の反抗と熱狂の叫びであり、新しいものを支持するのと同じくらい現状を強く否定する叫びでもある。 この叫びは自信に満ちている。
しかし同時に、男らしさを証明したいというあからさまな欲求の向こう側に潜む不安の叫びでもある。 毎朝、パーソナルコンピュータの電源を入れるたびに、この叫びは6千万人のアメリカ人のデスクに響きわたるのである。
空を飛びたい、世界を見たい、戦争に勝ちたい、{柄気を治したい。 こうした衝動が推進力となってさまざまな産業が生まれ、発達してきた。
ところがパーソナルコンピュータ産業には、いかにして出現し、現在どう動いているかを説明できるような推進力などなかった。 金持ちになりたいという欲求でさえ、椎涯力になり得なかった。
ほかの産業とは異なり、パーソナルコンピュータ産業はゲームとしてスタートしたのだ。 B・Gのようなコンピュー夕おたくは、だいたいがアメリカ人男性としての肉体的男らしさの基準を満たしていない。
公民権を剥奪されているようなものだ。 そこで彼らは、大人の世界の代わりになる自分たちだけの若者世界を創り出す方法を探し求め、新しい世界を創り出すことによって仲間の賞賛を得ようとした。

そうすることで欲求を満たそうと、ゲームを始めたのである。 ここが肝心な点だ。
彼らはお互いに相手を感心させようとして、新しい産業さえも興してしまったのである。 その事情はいまも変わらない。
1970年代半ば、パーソナルコンピュータ産業の存在を主張することさえむずかしかった時代に、19歳だったB・Gはアルテアで走る高級プログラム言語、BASICを書けると考えた。 アルテアは当時としてはユニークなホビイスト向けコンピュータだったが、当の設計者でさえ自分たちのマシンはあまりにも原始的で、その種の言語は利用できないと思っていたのにである。
だが、Gと彼の友人のP・Aはそうは考えなかった。 「ぼくらには、あのBASICインタープリタが書けだ、見てるよ」というわけである。
確かに彼らの言うとおりだった。 こうして、MSが最初のアップルコンピュータを設計したとき、S・Uは新しい産業を生み出し、富を手にしようと考えていたわけではない。
それどころか、コンピュータを売り出すことさえ考えていなかった。 ただ単に、シリコンバレーにあった「ホームブリュー・コンピュータクラブ」の仲間を感心させたかっただけである。
アップルを製品にしようと考えたのは、Wニアクの友人、S・Jのほうだった。 彼もまた自分の存在を印象づけたいとは思っていたが、Wニァクほど技術の才能を持ち合わせていなかった。
そこで、友人の栄光を分けてもらう代償としてフォルクスワーゲンのマイクロバスと自宅のガレージを提供した。 こうしてJは、現在知られているパーソナルコンピュータ産業を文字どおり創造したのだった。
こうしたパーソナルコンピュータ界のパイオニアたちは、それ以前には仕事の経験もほとんどなかった。 ましてや成功したことなど一度もない。
WニアクはH・Pに勤める目立たない技術者だったし、Jはビデオゲーム会社でアルバイトをしていた。 二人ともカレッジを卒業していない。

B・Gはハーバード大学を二年のときに中退して、MSを設立した。 彼らはのちに最大限まで利用することになるある視点を見つけ出した、頭のキレる子どもにすぎなかった滑走路のそばにいて、使い走りや半端仕事をする子どもたちを「エアポート・キッズ」と呼んだ。
子どもたちは仕事をする代わりに飛行機に乗せてもらい、いずれは操縦法を覚えられるのではないかと期待している。 リンドバーグの時代以後、アメリカ中どこの滑走路にもそういう子どもがいた。
エアポート・キッズは空を飛ぶことの驚異にとりつかれ、滑走路から離れようとしなかったのだった。 一般に、技術というのは何かしら新しいものごとのやり方が出現すると、人気を失うものである。
ところが、エアポート・キッズは何世代にもわたってアメリカで生き延びてきた。 空を飛ぶことがいかに魅力的なものだったかがわかるだろう。
最終的に彼らが消滅したのは、1970年代のことだった。 その原因は新しく登場した優秀な技術のせいではなく、飛行の経済性というバカげた問題のせいだった。
ある計算によれば、私たち全員がエアポート・キッズになって初めて、子ども一人を乗せられるだけの飛行費用の節約になるそうである。 かといって、子どもが自分で空を飛ぶ手段など持てるはずもなかった。

彼らは空に生き、空で働きたいというよりも、たまに空を飛べたらと願っていただけだ。 彼らの夢が死んだのは、この事実を理解したからだった。
1977年にカリフォルニアにやってきたとき、私は文字どおりシリコンバレー版のエアポート・キッズに出くわした。 ティーンエージャーだった彼らは、デジタル・エレクトロニクスと自分だけのコンピュータを作ることに熱中していた。

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